無数に並ぶタレからいつもの如くポン酢を選び、もみじおろしを鬼入れする。
それぞれが遅刻してちょうど良い集合時間となった夕方のしゃぶ葉は学校帰りの学生で賑わっていた。
スミマセンスミマセン、ドウゾドウゾと通りに道が生まれるのを待ち席に戻ると二人がなにやら盛り上がっていた。
そう、本日はワンシーズンに一度くらいで開催される前のバイト先の仲間の二人と食べ放題に狂乱する日であった。
◯
「ちかとさんってなにタイプですかね??」
Eっぽい、Sっぽいなどと目の前に置かれるアルファベット。
出されたそれらをひっくり返したものが私の”タイプ”であった。
隠しているわけでもないがわかる人には「あぁ、バレないように日々やりくりしてるんだねぇ〜〜ふぅ〜〜ん」と見透かされるのが怖く、日々をやりくりをしているのだが、それを全部ひっくり返してみなさいと言うと二人は顔を見合わせた。
「私たちもです」
吉祥寺にて同じ鍋を突っつくINFP×3人。
この構図は何かの風刺画とも取られるんじゃないかと思わず爆笑してしまった。
◯
みなさん、16タイプ(MBTI)はご存知だろうか。
よくあるネットでできる性格診断モノなのだが、当たってる外れているという占いのそれとも違う。
個人が世界をどのように捉えており、物事においてどのような判断基準を持っているかが心理学の視点により示される診断だ。
その結果も信じるかどうかではなく、ふ〜〜ん、確かに〜〜〜、そういうことか〜〜〜とカジュアルに自己分析する手段だと思っている。
初めてやった2年前はまた別の結果が出た。
しかし、その結果が「いや、こいつ絶対に不審なやつだろう!!」とフェイクで塗りたくられた己の奥側にあるピュアを取り出すというモードに入った。
つまりは擬態を外していく試練だ。
(その時に生まれた曲がソロでやっている「五畳半漂流記」だったりする)
結果、ここ数年たまにやると毎回同じタイプに落ち着くようになった。
それが仲介者といわれるINFP-Tである。
そして、検索欄に打ち込むと次に出る言葉が「やばい」「不思議ちゃん」「日本 合わない」である。
やばい!?!?!?
不思議ちゃん!?!?!?
日本 スペース 合わない!?!?!?
突如として日本の合わないやばい不思議ちゃんらの胃袋に100%の確率で収められる運命を背負わされた春菊らは阿鼻叫喚していたであろう。
そんな立ちのぼる湯気越しに圧倒的に詳しくなってしまったというT子が詳細を話してくれた。
◯
基本、頭がお花畑であり、その上に生きづらさを抱えているからたちが悪いと。
わかる〜〜〜。
中学生の頃、今日こそはフルでしっかりと日本史の授業を聞くぞ!!と臨むが、便覧に乗る武将たちを見て「同じ美容師がきってんのかなあ」とか「この先生、何円払って髪切ってんだろうなあ」とか「家帰ったら、顔色も変わるのかな?」と思っているとキーンコーンカーンコーンと鐘が鳴り礼をする日々であった。
そんな話をすると藪の中よろしく、二人の視点の話も共鳴となんだそれという面白さがあった。
勝手にイメージを膨らまして、気付いたら周りに誰もいない。THE不思議ちゃんじゃねえか。
◯
愛知の学生の頃映画館でバイトしており、当時20そこそこであったにも関わらず、よく26歳と思われることが多かった。
話が合う人がいなくて、もう諦めるしかなかったのだ。
そこで”擬態”という世を渡る術を手に入れた。
しかし、上京してからはよく学生に年下扱いされることが突然多くなった。
明らかに年下の人に初対面で「どう?就活始まった?」と突然声をかけられ、これはもう学生を演じるしかないなと「これからです」と答えると肩にポンと手を置かれ「就活すれば人間、自信着くから」と言われたしまいだ。
やばい、ピュアを持った結果”自信のないばか”になってしまった。
いや、戻ってしまったと言った方が良いか。この話をすると二人はすごく笑ってくれた。
さすが、似た痕跡のある者よ。
◯
確かに、この二人に関わらず「なんか合うなあ」という人とは、無意識に言葉ではない完全なイメージや妄想だけで話ができたりする。
不思議と伝わるのだ。だからこそ、人生どうしようか・・・という話題にも、あまり個人の話になりすぎず、行間というか核の周りで核の話をしているような、不思議なコミニュケーションなのだ。
そうとは言ったもののMBTIがその全ての基準とも思っていない。
しかし、このMBTIは生まれ持ったものではなく、どんな環境でどのように成長してきたか、そして現在どんなことに取り組んでいるかで変化するものだ。
そして、ここからは個人の勝手な想像だが、なんか不思議とこの人合うなあという人は、その成長過程がまるで違ってたとしても、持っている脳の痕跡が似ているということだと思う。
つまりは16タイプの結果は、その人の持っている脳の痕跡と関連している気がするのだ。
◯
T子が「自分というものが分からなくて、こういうものに没頭するということも特徴の一つかも」と言っていた。
その時に私がこの日記を載せていることの意味がわかった。
正体がまるで分からないのである。
高校生の頃の体育祭と文化祭の準備、大学の部活の合宿に、ゼミの飲み会。
まるで楽しさがわからないのに、楽しそうなことへは憧れがあるのだ。
だけど、気づけば一人の部屋を掘り進めている。
結局、その虚無に居心地の良さを感じるのだろうか。
電車も人の顔と姿勢と雰囲気が近すぎて、ドッと疲れてしまう。
「電車酔いじゃない?」そう言われた時にそうじゃねえよと思えど、それこそその弁は世の中においてノイズでしかないため「そうかも〜」とすぐ散る言葉を選んでしまう。
よって外部からは”不思議ちゃん”と括られるのであろう。
しかし、こうやって集まりそれぞれの視点によって語られる日常の細かい話を聞くことは本当に楽しい。
誰にも理解されない話こそエンターテイメントになり、時に想像のできない共鳴に繋がるのだ。
それは自分と近い人でも、少し遠い人でも。
周りには興味があまりなくても、人には興味があるのだろう。
それは自分の輪郭がハッキリとわからないからなのだろうか。
◯
先週、愛知で同級生と久しぶりに会った時にも圧倒的に置いて行かれてる感覚がはっきりとした。
社会的な責任を彼らほど真っ当に背負っていない。
これはまずい・・・!!なんて話をすると二人は爆笑してくれた。
これまたさすが、似た脳の痕跡を持つ者よ。
人は遊び心を手放さないといけないタイミングがきっとやってくるが、我々はしっかりと握って行こうぜという話になった。
こんなにもはっきりとした言葉ではなかったが、そう受け取った。
これからもきっと不思議な日記がつづきます。