こしあん日記(Koshiahh’s Diary)

MURABANKU。の土屋慈人の日常系

不適切にもほどがある!(04.08)

「厄年」という概念にある感覚はイニシエなのではないか・・・?

ドラマを見ながらふと思った。所謂男女で厄年の年齢は違う。

それはいつかの話で、今は生活も社会のポジションもみんな同じじゃない?そう思いchatGPTに聞いてみると─━

 

男性は25,42,61歳で、女性は19,33,37歳。

 

いや、いつの時代だよ!?!?

 

厄年に見える世の中の在り方がだいぶ遅れている。

 

 

26歳になるといよいよ周りが結婚していく。

私は地元から距離が離れているため「ごめん・・・」と免罪符を切りまくれるのだが、色々と食らうダメージはあるよなあと思った。

 

そんなある時、尊敬する大先輩とそんな話をしていると「土屋くん、26からさらなる地獄の始まりだよ」と、これからさらに数々の地獄があるのだという宣告があった。

私は、くぅぅまじっすか・・・と答えながらも胸中ではサァーーー!!イエッサーーー!!と進むしかないという勇気をもらえて楽になった。

 

その時に「厄年」って、年齢的に社会から重圧をかけられるタイミングのことを言うのだなと思った。

「男性」の定められた年齢を見てみると、今や男女に限らず多くの人において人生においてターニングポイントと言えるだろう。

 

去年のいろんな話を思い出しても、25歳前後は確かに過渡期である。

42歳には「中年の危機」が訪れるのだろうか、61歳というと定年退職?

確かに、一度立ち止まるポイントである。

 

しかし、その年齢が未だに男女で分けられているのは謎だ。

謎が儀礼として、謎の設定のままに存在している。

 

ドラマとはあまり関係ない話だが、昭和から令和になり世界も変わったが、根っこの「そういうもんだよ」は結局そういうもので残ったままなのだなと思った。

本当にドラマと関係ないのだが、ドラマを見ていて厄年の概念がふと思い出されて「中年の危機」という言葉があるように25歳におけるものを調べてみた。

すると「クォーターライフ・クライシス」直訳すると「四半期人生の危機」と出た。

 

いや、言葉でか!!!!!!!

しかし、その危機は身をもって体感した。それは自分の分だけではなく、何人分かの─━。

 

 

去年、なぜか人の恋愛相談、また婚活の相談を受けることがめちゃくちゃあった。

THE・なんでおれに!?案件であったのだが、もう周りから見れば私という存在は「そのほか」の人間なのであろう。

友達コミュニティも集団でなく完全に一対一であるため外部に漏洩する可能性もないと踏まれたのか謎の信頼を得ていた。

 

THE・おい!!!事ではあるがそれぞれの話を聞いてみた。

自分でもどのポケットから出したのかわからぬ言葉で時に相手に響いてるようで、時にそうではないようで、話を聞きながらその奥に何かモヤモヤとした何かが立っているような気がした。

 

それがやっぱり共通してTHE・社会であった。

 

ネット、友人、家族、会社、文化・・・。

 

話を聞きてあーだこーだ言って、うまくいくと良いなあと思いながらも、毎度なんだか申し訳なくなってくる。

私はそのリングに立ってちゃんと戦っていないのだ。

私はずっとズルをしてきたんだなと思った。

 

 

ドラマの終盤で、令和でコンプラが身についた主人公(昭和の鬼教師)が、いざ昭和に戻るとかつての習慣に呆れるを越して絶望するシーンがあった。

飲みにケーション♪と謳われる飲み会だったり、他の教師が「いじめられる方にも原因がある!」と言動だったり、かつての自分の感覚や言動に対して「もう、やめた」と。

 

飲み会のシーンで、不登校の子の話になった時に教頭が「時に愛のムチも必要だ」と自分をライオンに喩えてた始めた瞬間に胃がグゥ〜と重くなった。

 

THE・いやぁぁぁぁぁである。

そう、最&悪!!!なのである。

 

そこで主人公はイヤイヤと根本を解決するにはそれじゃないと、勢いのあまり話すと周りからは「ノリが悪いですよ〜」「正論ばっかはつまんないですよ〜」と流されてしまった。

 

この胃のもたれる感じ・・・覚えがあるな・・・と記憶を遡ると高校の頃のことを思い出した。

この日記にもいつか載せたことがあるかもしれないが、高校一年生の頃の記憶が強烈に残っている。

 

クラス対抗のコーラス大会というものがあり(口を開けて揺れていると優勝する)、私はその時書紀でクラス代表の4人に入っていた。

そして、ラインのグループで日々大会に向けて改善するポイントなどを話すことがあった。

 

ある時、Aくんが全然練習もせず、場を乱すようになったことがあり、それがグループの議題で上がった。

その様子がかまってほしいのだろうなと思い、これでひとまず解決するだろうという案を送信するも既読がつくのみ。

そして、その後人気者であるBくんが一言ラインを入れた。

 

「A、次あったらぶっ飛ばす」。

「きゃー、かっこいい!!」と反応する女子二人。

 

THE・終わっておる!!

 

その時に、カーストみたいなものは世の中に存在するんだ!と20世紀FOXよろしくズデーンと自分の価値観に屹立したものがあった(ライトアップまでされて☆)。

種類は違うかもしれない、けれど、あのシーンと同じ胃の重さがあった。

もう、これは自分の力じゃどうにもできないという絶望的な諦めだ。

 

AくんともBくんともそこそこに仲はよかった。

けれど、スクールカーストも付き合うも青春も、もし本気で望むなら自分には”プレイ”としてやるしか無理だ!と潔く降板した。

その実、それは降板しているフリだったのかもしれないが、その時点でもうその輪は諦めてしまったのだ。

 

それと同時に、自分が楽しく生きていくにはこの輪にない何かを見つけないとこの絶望からは抜けられないのだろうと強く思った。

 

 

中高〜大学まで絶望の向こう側へ行ってしまうとカンストした嫌なやつになってしまう。

私はこの前の愛知遠征で実家に帰った時にどうしてもやっておきたいことがあった。

 

Tinderであの時の同級生が現れることはあるのか。

 

インストールをすると年齢から求める距離感まで設定できて「26」「4km」と入力するとぐるぐると画面はロード画面に変わり、その後バン!!と一枚の写真が━━

 

「C 26歳」

 

・・・Cだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

出てきた一発目になんの加工もされていない中学の同級生がバンと画面越しに現れた。

掃除の時間に、キャッキャとどこかで盛り上がっていて、その人の机を別の人が無言で運んでいたくらいに、所謂1軍の女子であったあのCが画面に現れた。

 

一瞬で誰か分かるその写真に、私は心の底からざまあみろと思った。

そして、一瞬で分かるその写真を選んだ努力に、私は心の底から申し訳ないと思った。

こんなこと思ってしまって・・・の二律背反である。

 

自分のどこかに復讐みたいなものがあるのだろうか。

いつか、自分だけが最高〜〜!!となる瞬間があるんじゃないかとコソコソと生きてきたが、そんな未来はもう無いのだなと思った。

 

しかし、今になってふと年齢をとるたびに辛いなんて話を聞くたびに、どう合わせたら良いのかわからなくなる。

消して今が辛くないとは言えないが、あの正露丸を飲んで学校に通っていた日々に比べたらずっと楽しい。

「ほんと辛いよなぁ」なんて言いながらも、結局どうにもプレイは続くのである。

 

 

「厄年は、結婚や昇進などといった社会的な重圧と関係している?」とchatGPTに聞いてみた。

すると「厄年に関する信仰や迷信は、社会的な圧力やストレスと関連している場合があります。」と続いた。

 

そして、男女でタイミングが違うのは「生活や社会的な役割、身体的な成熟の違いが反映されています」だという。

いつの話をしてるんだ!!

 

古代の文化や歴史背景に根ざしている男女においての「生活や社会的な役割」。

昭和から令和になり、どれほど時代が変わったと言っても全く変わってない「そういうもの」というものは存在するんだな。

そして、25歳あたりという厄年と言われるタイミングは現代において誰にとっても四半期の危機であるのだ。

 

結局何を思ったのかと言うと、きりばらいが使えるのはジムリーダーを倒してから、ということだ。

突然、ポケモンでの喩えになってしまったが、つまりは、Lv.を上げて目の前を達成するには自分と向き合う方法しかないということだ。

だから、きっと地獄は続くのだ。(オウフ!!!)

 

今において、厄祓いをする人を周りで見ることはないが、現象としては同じようなことがあるだろう。

例えばネットで見かける言葉(自己肯定感)や、時に〜ハラスメントと言った言葉もきっと一種の厄祓いだ。

 

「これが”厄”だ!」と言った名称や括りの存在を知ると、人は自然と払った気になってしまう。実はまだその”輪”の中にいるのに、安心してしまうのだ。

そのためにも〜ということはあるが〜、と改めて自分を主語においていろんな角度で考えていかないといけない。

そして、そのタイミングはさらに強度を増して訪れるという。なんたること・・・。

 

 

このドラマに関して、語りたいことはたくさんある。

とにかく、古田新太阿部サダヲのやりとりが最高だったのと同じくらい、磯村勇斗がもう歌舞きまくっていたこと。

クドカン作品は、その後の彼らの人生も伝えてくれる愛と優しさまであること。

そして、今あるセンシティブなものに対する、このドラマのメッセージ。

 

彼らの無事を心から祈っている。

そして、色々あるが結局は危機と、己と向き合わないといけない。

不適切にも”程”はあるのだ。