”MURABANKU。SHINKA TOUR”名古屋篇が無事終わった。
お越しくださった皆さん、念を馳せてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
ここまでやってこれたこと、また今後をまた始められることも、普段僕たちの音楽を聴いてくれていたり、チェックしてくれている皆さんの活力のおかげです。
ありがとうございます。
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今日のライブで現メンバーでの名古屋ライブはラストだ。そして、名古屋から始まったバンドとしても自分としても、これはけじめをつけるライブになるだろうと確信した。
しかし「けじめをつける」という大きな言葉はどうにも身の程に合わない。ならば、その大きな言葉は花火の種にしちゃお〜と、とにかく来てくれた人が入場してから帰るまで”なんかずっと楽しい夜”を目指した。
そして、テーマとして掲げた「進化」。メンバーがバンドから離れるという意味合いでもあるのだが、私の中で進化とは、今の自分をちゃんと成仏することである。
去年一年、エンタメにおいて自分がグッとくるもの、興奮するものはなんだろう?と探求した結果、見つけた言葉が「いのちの輝き」であった。
言葉にすればベタなのだが、やはり何かに則ったものより、みてくれを気にしたものよりも、バカで阿呆で素直でぶっ飛んでて愛がこっそり詰まっている一瞬がかけがえのないものだと感じる。
じゃあ、どんな時にそれは発揮されるのだろう?と考えたときにポケモンの進化の瞬間を思い出した。如何にも電波脳である。
上手くいっても、上手くいかなくても、素の状態で全力を出すことによって、今の自分たちは成仏される。そして、それぞれ一人ずつがそれぞれの次に進めるのだ。
これは自分達だけじゃなく、来てくれたみなさんも共に「進化」をはかることができたら、何かそれぞれのハッピーが少し見える予感がした。
よし、これはみんなのライブになるぞ、と。
そして、お世話になっており大好きな音楽仲間を呼んでみることにした。
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すべては愛知は尾張小牧にある倉庫から始まりました。
ライブのMCで鍵盤の小田くんが「当時はアンチテーゼを考えて〜」と話していたが、まさに答えのない着地点を考え続ける日々が続いたのだ。
当時のことを思い出すと拗れに拗れていただろう。
賑わってて楽しそうな同世代の界隈には行かない。
ライブ中MCでアルバムを「引っ提げて」という言葉や、拍手のタイミングを促すための「ありがとうございます」は言わないだとか。
飲み会もしなければ、出演したイベントの打ち上げにも参加することはなかった。
ストロングオブストロングスタイルを極めてしまっていたのだ。
しかし、それらは自分の中で”正”に対する”反対”を取っていたわけではない。
賑わっているからという動機でその界隈に踏み込むことも、タイミングを作るための感謝も、気を遣って褒め合うことも、全部”フェイク”であるからだ。
自分が幼い頃から好きなモノや憧れの人は、みんな前例のない場所から1を生み出している。それはすなわち自分の”リアル”をちゃんと持ち続けることが大切なのだろうと、周りにも煙たがれるなか、頑なにそこだけは信じてきた。
そして、そんな状態の我々を見て拾ってくれたのが、今日ゲストで出演していただいた「しょうにゅうどう」の河合慎吾さんなのであった。
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今でも覚えている。凄く語弊があるが、対バンで初めて”びびび”があった。
その日はサポートでウッドベースを弾かれており、その佇まいに演奏が本当にカッコよかった。
動脈の隙間まで音が沁みるような体験があった。
それからDMで「この週末の金山ブラジルコーヒーのライブ、きっと好きだと思いますよ」と連絡をいただき、これは行こうと行ってみるとNRQがライブをやっており、名古屋のミュージシャンが一堂に会していた。
高校の頃に部活のヒデが知ったように「かわいい子の知り合いはかわいい子なんだよ」と言っていたが、あながち間違いではなかった。
かっけえ人にはかっけえ仲間がいる。
そこから、私たちの名古屋でのライブは本格的にスタートした。
本当に刺激的で最高なバンド、ミュージシャンばかりで、私たちのルーツはそこで育まれた。
だからこそ、今回「しょうにゅうどう」のお二人にはゲストで出ていただきたいと思い、お声掛けしてみたら快く引き受けてくださった。
ライブでは、私の好きな一曲を勝手ながらアレンジさせてもらい、お二人にもお客さんにも好評で嬉しかった。
そして、それは思い出に留まることなく、今後の新たな計画にも繋がりさらに嬉しかった。
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「檸檬」という同級生の二人にはDJをしていただけた。
当時、頑なに「年齢が近いからというだけで意気投合したら身内オブ身内ノリになってしまい」と敬遠していたのだが、自分達だけでやるにも身内ノリが強まってしまうなと悩んでいた時に出会ったのが檸檬の二人であった。
はじめはインスタで知り、活動が本当にカッコよくてこれまた”びびび”があった。
これはストロングスタイルでやっている人だと確信の持てるようなアカウントだったのだ。
当時作っていたフリーペーパーの新聞の制作を手伝っていただき、それまで昭和の怪しさ溢れる新聞がパステルのかわいい新聞になったのだ。
確か卒論を書いていた頃で愛知で共闘した期間は意外と短かったのだが、上京する前に出会えて本当によかった。檸檬のおかげでバンドが垢抜けられた部分があったのだ。
そんな我々の今までの様子を知ってくれていて、音楽という文脈をミクロで大切にしているお二人にDJをお願いできたらなと思い、久しぶりに連絡をしてみた。
やはり檸檬に何か依頼する時は緊張する。硬い文章で送ってみたら絵文字付きで返信がきてあぶね〜〜よかった〜〜と、無事引き受けてもらえることになって嬉しかった。
Spotifyにて、当日のプレイリストが公開されているから是非聴いてみていただきたい。
彼女たちは本当にプロですぜ。歌詞だったり最後に鳴る楽器の音で次に繋がっていく。
そして、二人それぞれの選曲がまたグッとくる。
タミヤさんは歌詞で紡いで、エンジョイ(ノゾミ)は旋律で紡ぐ。
そのプレイリストの流れに一曲一曲を改めて聴いて、やっぱり色々バレてんなあと小っ恥ずかしくもなった。
会場でLianne La Havasの”Seventime"が流れたときはハッとした。
不思議なもので一音聴くと、情景がパッと広がるもので、愛知に居るとずっと愛知に居るような不思議な感じがするが、その音で東京の日々がス〜〜と脳裏に映し出された。
エンジョイの仕業か!!!!!
そして、この「成仏」の感覚は星野源”生まれ変わり”を当時聴いた時に宿ったもので、それも会場で流れた時に、あれ?話したかな?と思ったが、これまたタミヤさんの仕業であった。
いきである。二人の選曲のおかげで今回のライブについての意図をMCで言い過ぎなくて「楽しさ」で貫き通せた。大感謝である。
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そして、この日ライブに来てくれるというものだから、せっかくだし・・・!とお声を掛けたら出演してくれたムルヒさん。
上京した翌日に自粛が始まり、私はゲームに没頭する日々へ。
気づけばその世界でプレイヤーの上位数%まで上り詰めて、あぁ世の中にもう戻れないかもしれない・・・となっていた時に、ムルヒさんと共作した「14番道路」というアニメーションのMV。
キャラデザを描いて、ムルヒさんに送る。すると、それがアニメーションになって返ってくる。
とにかく偏愛を詰め込もう!と車のデザインから街の情景まで作っていただいた。
しかし、その時ムルヒさんはまだ宅録がサブスクに上がっているくらいでライブはまだ全然されていなかった。
そして、その時すごくお仕事で忙しくされていた。その中でこのアニメーションを創ってくれたのだ。
飄々としているが、その背景には私の想像のつかない現実と戦っているんだろう、と彼の作る細部のこだわりからも、その血をすごく感じた。
こうしちゃあおられん!!と動き始めて繋がったのが川口センキヤさんである。
あの時、ゲームを極め続け、ものづくりの世界へ帰ってこれなかったと思うと怖い話である。
ムルヒさん、本当にありがとう。私にとっての救世主なのです。
今日のライブでは「14番道路」に電波脳歌詞を作ってみて、ムルヒさんが見事に歌い上げて下さった。あぁ、最高だったなあ。
ムルヒさんのバッグバンドをやるという約束も忘れちゃおりませんよ。また、楽しみにしています。
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凄く長くなってしまったが、最後に我々のセンターをつとめてくれたお二人、生駒先輩にとますプロ。
生駒先輩は、大学のビッグバンド部の先輩。入部した時のキャプテンである。
愛知でライブがあるたびに出演していただいており、この日また生駒先輩含め名古屋時代のメンバーと演奏できたことによって報われる日々があるように感じた。今回もありがとうございました。
そして、フィドルのとますプロ。私が大学の頃カントリーの箱バンでギターをやっていたことがあり、そのカントリーのライブハウスで知り合い、自主制作盤の制作時にフロントマンをやってくれていた。
しかし、部活の方も忙しく我々は東京にも行くということでフェードアウトする形になってしまった。
それからしばらく疎遠になっていたのだけれど、去年ライブに来てくれて再会を果たした。
その時に「あの時、ちかとがやりたかったことがやっとはっきりわかったよ」と彼は真っ直ぐな目で言ってくれた。
私自身も、五線譜が読めなければ、音楽理論も全くわからなくイメージの共有だけでアレンジしていくものだから、なかなかに難しい想いにさせてしまっていたのだろうか、申し訳ないことをしたな・・・と思っていた。
「でも、本当に、嫌になったとかではなくて。それが言えなかったのがずっと気がかりで」と彼は「ごめん」と言った。それ以上の質量のごめんを私は抱えていたのに先に言わせてしまった。私もすかさず謝り、ぜひまた一緒に演奏しようと約束をした。
そして、今回がまさにそのタイミングだと思い、声をかけてみたら快く引き受けてくれた。
ライブはかつてない楽しさがあった。彼は当時から上手かったのに、格段に上手くなっており、その場の空気をしっかりと握ってくれ、圧倒的なフロントマンをやってくれ演奏しながらもかなりグッと来てしまった。凄まじかった本当にありがとう。
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ライブ終演後、岐阜タンメンでみんなでラーメンを食べた。
今は飲み会もやるべきだとたまに打ち上げをやっているが、愛知でこうやってみんなで飯を食うのも不思議であった(テーブルは分かれていたが)。
小田くんに実家まで送ってもらい近況報告を少ししながら解散した。
とにかく良いライブになってよかったねと讃えあった。
当時、抑えて抑えて出来るだけ抑えてきたものが、反動となって光となった感覚があった。
それは私たちが発光しているのではなく、目の前の客席が光る瞬間があったのだ。
当時じゃ恥ずかしくてあまり見れなかった客席も、今はライブを展開していくためにもちゃんとみれるようになった。
あの日だからこそ気づけた輝きを、これからも大切にしていきたい。