こしあん日記(Koshiahh’s Diary)

MURABANKU。の土屋慈人の日常系

戦慄の虫歯10本(04.15)

虫歯が10本あります☆

── 白馬に乗った白衣の王子様は歯をキランと輝かせながらそう言った。

 

キェェェェェェェェェェェェエエエエエエエエエ。

え、めちゃくちゃ家賃取れるじゃんよ!?

 

その後、えげつないほど口内よりドリルの音が鳴り響いた。

 

 

最近、最寄りの駅から伸びる◯◯ストリートに軒を連ねる店に新たなる顔ぶれが多くて驚いた。

派手じゃないこの町も変わっていくんだな。

その中にイクスピアリにあってもおかしくない佇まいの歯医者さんがぴかぴかとしていた。

 

ちょうど、昔に詰めたはずの奥歯が欠けた。

アトラクションに乗る気持ちで行ってみようかなと帰宅度メールで予約をした。

 

 

高校の頃、歯医者さんへ行き「君は表面は上手く磨けてるんだけど、裏がねえ」と指摘され、歯医者とは口内の状況から露呈する人間性を暴かれる場所だと認知して行くのが恐ろしくなった。

バレているのだ・・・!

 

それから、歯医者を変えてこれまたイクスピアリにありそうな歯医者さんに行ったら担当の先生が当時好きだったセクシー女優にめちゃくちゃ似ていて、レントゲン室に閉じ込められてどうにかされちゃうんじゃないか・・・!?と妄想する自分がキモ過ぎて、結局元の暴露系歯医者さんにお世話になった。

 

そして、久々のイクスピアリにありそうな歯医者さん。

ひとつ、お願いします ──

 

ま、眩しい・・・!

辺り一面が日中の明るさでいっぱい。

自然光の光という光が店内のクリスタルの壁で乱れるように反射している。

と、溶ける・・・・・・。

 

すると左から「こんにちは〜」という華やかなひと声。

 

 

白衣の天使 in da dental clinic!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

というのも時代的でないだろうが、上京後お世話になっていた歯医者さんはゴルフの打ちっ放しからそのまま来たようなゴルフウェアのおじさん先生だったため、ギャップに驚いた。

 

そして、systematic!!!!!!!

 

おばちゃんが向かい入れてくれ、太々しく(貫禄を持って)先生が訪れるのと違う。

細かく院内のポジションが振られており、効率的かつ丁寧に私は誘導されていった。

 

しかし、つまらないことに私ももう大人である。

レントゲン室に連れていかれる時には「あ、多くお金を請求されるわ・・・」と能面で指定された位置に顎を置いていた。

そして、両手をその顎の近くの握り手へ誘導され、この状況を3Dプリントされたら黒歴史確定のTHE・恥ポーズで皮膚の向こう側を撮られていった。

 

 

久々に歯医者さんへ行くと毎度思う。

ここまで口の中をえげつなくあれこれされるって、あり得ない信頼関係の元成り立っているよな、ということ。

逆を返せば、いつ歯を勝手に抜かれたり、ドリルで舌に穴を開けられるかも正直わからない状況だ。

 

これまた、姉さんにえげつなく口を引っ張られ様子を見られる。

そして、姉さんから色々と質問を受けて、できるだけ暗い結果が来ないように前向きに答えていく。すると ──

 

「前の詰め物の奥に虫歯が残ってて、大きな巣になってますね」

 

あのジジイ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

いや、あれはやっぱり貫禄ではなく、太々しさだったな!!!クソオオ、やられたな!?!?

診療時間がアニメでいう間で入るアイキャッチくらいだったもんな!?!?

金を返せぇぇぇ!!!!

 

胸中でも疼く虫を落ち着かせながら(この身体にどれだけいるんだ)、私はクールに「そうですかァ」と答えた。

 

 

それにしても、イクスピアリ歯医者さんはやっぱりすごい。

とにかくクリスタル。濯いでくださいね〜の紙コップの所定の位置が置くと光ったりする。

 

先生が来ますのでお待ちください〜。

そう言われ、私は個室で一人になる。

目の前にあるどでかい真っ暗なスクリーンと睨めっこ状態だ。

ここでドクターマリオやったら楽しそうだなあとふと思ったが、このスクリーンに絶望が映される可能性に気がついて脳を鈍感にさせて無になった。

 

「こんにちは〜」 ──

 

白馬に乗った白衣の王子様、降臨!!!!!!!!

イケメソ!!!!!!!!!!!!!!!(古い)

 

若い先生に口内をめちゃくちゃにされるのは初めてだった。

私はただ一言伝えたかった。「勇気をもつ、時間をください」と。

 

口内をえげつないほどにかき乱されて、私のわからないアルファベットを次々に唱えていく。

ダッシュダッシュ」という響には不安しかなかった。

 

 

「虫歯が10本あります☆」。

いやあ、響いたね。いやあ、私の痛覚よ。

痛みは未だに全くないのだ。

 

時に、取り組むいろんな物や関係に繊細になり過ぎてしまうと上手くいかないそんな人生だ。

そんな時に自分を鈍感にさせる癖がついてしまったのだろう。

この虫歯10本はまさに物語っている。

お金を医療にかけたくないという気持ちから痛みに鈍感になることで蓋ができてしまう。

オイオイ、そんな大人になっていいのか。

蓋をしていても、巣は広がっていくのである

 

・・・って、あのヤブ医者ジイイめ!!!!!!!!!!!!!!

 

今後このクリスタルクリニックにたびたび通うことで、数年後の私はきっと裏表もない所謂”パーフェクト(完全なる)クリスタルヒューマン”と化していることでしょう。

ウインクすれば星さえ瞬く。なんちって(ドヘーン)

不適切にもほどがある!(04.08)

「厄年」という概念にある感覚はイニシエなのではないか・・・?

ドラマを見ながらふと思った。所謂男女で厄年の年齢は違う。

それはいつかの話で、今は生活も社会のポジションもみんな同じじゃない?そう思いchatGPTに聞いてみると─━

 

男性は25,42,61歳で、女性は19,33,37歳。

 

いや、いつの時代だよ!?!?

 

厄年に見える世の中の在り方がだいぶ遅れている。

 

 

26歳になるといよいよ周りが結婚していく。

私は地元から距離が離れているため「ごめん・・・」と免罪符を切りまくれるのだが、色々と食らうダメージはあるよなあと思った。

 

そんなある時、尊敬する大先輩とそんな話をしていると「土屋くん、26からさらなる地獄の始まりだよ」と、これからさらに数々の地獄があるのだという宣告があった。

私は、くぅぅまじっすか・・・と答えながらも胸中ではサァーーー!!イエッサーーー!!と進むしかないという勇気をもらえて楽になった。

 

その時に「厄年」って、年齢的に社会から重圧をかけられるタイミングのことを言うのだなと思った。

「男性」の定められた年齢を見てみると、今や男女に限らず多くの人において人生においてターニングポイントと言えるだろう。

 

去年のいろんな話を思い出しても、25歳前後は確かに過渡期である。

42歳には「中年の危機」が訪れるのだろうか、61歳というと定年退職?

確かに、一度立ち止まるポイントである。

 

しかし、その年齢が未だに男女で分けられているのは謎だ。

謎が儀礼として、謎の設定のままに存在している。

 

ドラマとはあまり関係ない話だが、昭和から令和になり世界も変わったが、根っこの「そういうもんだよ」は結局そういうもので残ったままなのだなと思った。

本当にドラマと関係ないのだが、ドラマを見ていて厄年の概念がふと思い出されて「中年の危機」という言葉があるように25歳におけるものを調べてみた。

すると「クォーターライフ・クライシス」直訳すると「四半期人生の危機」と出た。

 

いや、言葉でか!!!!!!!

しかし、その危機は身をもって体感した。それは自分の分だけではなく、何人分かの─━。

 

 

去年、なぜか人の恋愛相談、また婚活の相談を受けることがめちゃくちゃあった。

THE・なんでおれに!?案件であったのだが、もう周りから見れば私という存在は「そのほか」の人間なのであろう。

友達コミュニティも集団でなく完全に一対一であるため外部に漏洩する可能性もないと踏まれたのか謎の信頼を得ていた。

 

THE・おい!!!事ではあるがそれぞれの話を聞いてみた。

自分でもどのポケットから出したのかわからぬ言葉で時に相手に響いてるようで、時にそうではないようで、話を聞きながらその奥に何かモヤモヤとした何かが立っているような気がした。

 

それがやっぱり共通してTHE・社会であった。

 

ネット、友人、家族、会社、文化・・・。

 

話を聞きてあーだこーだ言って、うまくいくと良いなあと思いながらも、毎度なんだか申し訳なくなってくる。

私はそのリングに立ってちゃんと戦っていないのだ。

私はずっとズルをしてきたんだなと思った。

 

 

ドラマの終盤で、令和でコンプラが身についた主人公(昭和の鬼教師)が、いざ昭和に戻るとかつての習慣に呆れるを越して絶望するシーンがあった。

飲みにケーション♪と謳われる飲み会だったり、他の教師が「いじめられる方にも原因がある!」と言動だったり、かつての自分の感覚や言動に対して「もう、やめた」と。

 

飲み会のシーンで、不登校の子の話になった時に教頭が「時に愛のムチも必要だ」と自分をライオンに喩えてた始めた瞬間に胃がグゥ〜と重くなった。

 

THE・いやぁぁぁぁぁである。

そう、最&悪!!!なのである。

 

そこで主人公はイヤイヤと根本を解決するにはそれじゃないと、勢いのあまり話すと周りからは「ノリが悪いですよ〜」「正論ばっかはつまんないですよ〜」と流されてしまった。

 

この胃のもたれる感じ・・・覚えがあるな・・・と記憶を遡ると高校の頃のことを思い出した。

この日記にもいつか載せたことがあるかもしれないが、高校一年生の頃の記憶が強烈に残っている。

 

クラス対抗のコーラス大会というものがあり(口を開けて揺れていると優勝する)、私はその時書紀でクラス代表の4人に入っていた。

そして、ラインのグループで日々大会に向けて改善するポイントなどを話すことがあった。

 

ある時、Aくんが全然練習もせず、場を乱すようになったことがあり、それがグループの議題で上がった。

その様子がかまってほしいのだろうなと思い、これでひとまず解決するだろうという案を送信するも既読がつくのみ。

そして、その後人気者であるBくんが一言ラインを入れた。

 

「A、次あったらぶっ飛ばす」。

「きゃー、かっこいい!!」と反応する女子二人。

 

THE・終わっておる!!

 

その時に、カーストみたいなものは世の中に存在するんだ!と20世紀FOXよろしくズデーンと自分の価値観に屹立したものがあった(ライトアップまでされて☆)。

種類は違うかもしれない、けれど、あのシーンと同じ胃の重さがあった。

もう、これは自分の力じゃどうにもできないという絶望的な諦めだ。

 

AくんともBくんともそこそこに仲はよかった。

けれど、スクールカーストも付き合うも青春も、もし本気で望むなら自分には”プレイ”としてやるしか無理だ!と潔く降板した。

その実、それは降板しているフリだったのかもしれないが、その時点でもうその輪は諦めてしまったのだ。

 

それと同時に、自分が楽しく生きていくにはこの輪にない何かを見つけないとこの絶望からは抜けられないのだろうと強く思った。

 

 

中高〜大学まで絶望の向こう側へ行ってしまうとカンストした嫌なやつになってしまう。

私はこの前の愛知遠征で実家に帰った時にどうしてもやっておきたいことがあった。

 

Tinderであの時の同級生が現れることはあるのか。

 

インストールをすると年齢から求める距離感まで設定できて「26」「4km」と入力するとぐるぐると画面はロード画面に変わり、その後バン!!と一枚の写真が━━

 

「C 26歳」

 

・・・Cだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

出てきた一発目になんの加工もされていない中学の同級生がバンと画面越しに現れた。

掃除の時間に、キャッキャとどこかで盛り上がっていて、その人の机を別の人が無言で運んでいたくらいに、所謂1軍の女子であったあのCが画面に現れた。

 

一瞬で誰か分かるその写真に、私は心の底からざまあみろと思った。

そして、一瞬で分かるその写真を選んだ努力に、私は心の底から申し訳ないと思った。

こんなこと思ってしまって・・・の二律背反である。

 

自分のどこかに復讐みたいなものがあるのだろうか。

いつか、自分だけが最高〜〜!!となる瞬間があるんじゃないかとコソコソと生きてきたが、そんな未来はもう無いのだなと思った。

 

しかし、今になってふと年齢をとるたびに辛いなんて話を聞くたびに、どう合わせたら良いのかわからなくなる。

消して今が辛くないとは言えないが、あの正露丸を飲んで学校に通っていた日々に比べたらずっと楽しい。

「ほんと辛いよなぁ」なんて言いながらも、結局どうにもプレイは続くのである。

 

 

「厄年は、結婚や昇進などといった社会的な重圧と関係している?」とchatGPTに聞いてみた。

すると「厄年に関する信仰や迷信は、社会的な圧力やストレスと関連している場合があります。」と続いた。

 

そして、男女でタイミングが違うのは「生活や社会的な役割、身体的な成熟の違いが反映されています」だという。

いつの話をしてるんだ!!

 

古代の文化や歴史背景に根ざしている男女においての「生活や社会的な役割」。

昭和から令和になり、どれほど時代が変わったと言っても全く変わってない「そういうもの」というものは存在するんだな。

そして、25歳あたりという厄年と言われるタイミングは現代において誰にとっても四半期の危機であるのだ。

 

結局何を思ったのかと言うと、きりばらいが使えるのはジムリーダーを倒してから、ということだ。

突然、ポケモンでの喩えになってしまったが、つまりは、Lv.を上げて目の前を達成するには自分と向き合う方法しかないということだ。

だから、きっと地獄は続くのだ。(オウフ!!!)

 

今において、厄祓いをする人を周りで見ることはないが、現象としては同じようなことがあるだろう。

例えばネットで見かける言葉(自己肯定感)や、時に〜ハラスメントと言った言葉もきっと一種の厄祓いだ。

 

「これが”厄”だ!」と言った名称や括りの存在を知ると、人は自然と払った気になってしまう。実はまだその”輪”の中にいるのに、安心してしまうのだ。

そのためにも〜ということはあるが〜、と改めて自分を主語においていろんな角度で考えていかないといけない。

そして、そのタイミングはさらに強度を増して訪れるという。なんたること・・・。

 

 

このドラマに関して、語りたいことはたくさんある。

とにかく、古田新太阿部サダヲのやりとりが最高だったのと同じくらい、磯村勇斗がもう歌舞きまくっていたこと。

クドカン作品は、その後の彼らの人生も伝えてくれる愛と優しさまであること。

そして、今あるセンシティブなものに対する、このドラマのメッセージ。

 

彼らの無事を心から祈っている。

そして、色々あるが結局は危機と、己と向き合わないといけない。

不適切にも”程”はあるのだ。

神も知らない総集編(03.30)

久しぶりに風邪を引いた。

熱は全く出ないのに、細胞がボロボロと転がっていくような。

身体は弱いが体力はあるという凸凹なパラメーター故なのか、ひと段落つくとよく風邪を引く。

 

それは気の緩みなのだろうか、はたまた深夜にしていた空中ウォーク散歩が仇となったのだろうか。

それは神のみぞ知るべきであるが、きっと神もくだらなすぎて相手にしないだろう。

 

 

久闊を叙する。みなさん元気でしたか。

日記もしばらくご無沙汰してしまった。

 

3月はとにかくハードコアを極めていた。

書くべきことが多すぎて、内容が飽和してしまい下書きにそっと眠らせてしまった。

 

3月は、現体制のバンドの絶対的な着地点へと点を繋げながら、この春に向けての猛烈な支度を整える、まさに平行世界を行き来するような不思議な日々であった。

そして、普段の日常も溶けるくらいたくさんの作品を読んだり観たり、インプットがたくさんできた。

 

だからこそ、日常という日常の記憶はあまりなく、何かを作るか画面か頁の中か机上にいた覚えしかない。

 

これでいいのか・・・!?

 

 

私は一行でも済む話を1500文字以上書ける無駄なスキルを持っている。

改めてここで下書きを見ながら三月を振り返りたい。

主題となる一行と簡潔に今の私が振り返るという方式でいこう。

さぁ、行くぞ!

 

 

「突如、まめっちに目覚める」(03.07)

 

最近、私の肛門、おっとX(©︎ナイツ)のトレンドは絵師さんによる主にrkgk(落書き)で賑わっている。

あるあるなのだ。自分の音楽アカウントのつもりがすぐAIに「お前はヲタクだろう」と判定されてしまい、挙句タイムラインはイラストやゲームの話題で溢れかえる。

そんなある日、好きな絵師さんがたまごっちのまめっちの落書きをうpしていた。

 

もちろん完成されたイラストも好きなのだが、私は落書きが今特に好きだ。

その自由な線にあるのは生命力だけではない、愛が詰まっているのだ。

大袈裟にいうと血が通っている。そういうものにキュンときてしまう。

 

私は小学生の頃、ロボットや戦隊モノよりディズニーにポケモンといったキャラクターにハマっていた。

そして、もちろんたまごっちにもハマった。

 

いわゆる”エンたま”から入り、周りが離れても”ウラたま”というパラレルワールドのシリーズまで遊んでいた。

BSでやっていたアニメもなんとか見て、カードダスでレアのまきこが出た感動は未だに覚えている。

 

映画も、その音楽も最高だった。しかし、その時にはもう同じ情熱で語れる人は誰もいなくて、一人で「ききっち、いいよなあ、いいなあ」と絵を描いていた。

もう、紙の上に生み出すしか無いのである。

 

絵師さんのまめっちの絵を見た時に心はもちろん、そして鼻腔が反応した。

親に隠れてばあちゃん家で深夜までこっそり遊んでいた、あの時の寝室の空気のにおいが蘇ったのだ。

 

結何が言いたいのかというと──

 

ネット最高〜〜〜!!!!!

 

あなたも私も一人ではないのだ。

 

 

「あんこの甘さに嘘はない」(03.09)

 

いつもお世話になっている川口にあるsenkiyaさん。

そんなある日帰りの準備をしていたら、ふとあんこの香りに気づいた。

 

senkiyaさんにはいろんなお店があり、その中にわがしを販売している「わがしの日」がある。

ちょうど近くを店主のカミーさんが通った時に「あんこの香りですか?」と声をかけてみると「ちょうど今あんこを作ってるんです・・・!」と。

いやあ、我ながら毎朝小倉トーストを食べて育った人間ゆえ、あんこへの反応は早かった。

 

早速、できたてのあんこを特別にいただけた。

スタバのラテのようにカップに入ったあんこ。それ以上に可愛いものはあるのだろうか。

ちょうどその日はカントリーのライブに出る予定があり、カミーさんと話していたら「もしかして、赤坂ですか・・・!?」。

 

まさに、赤坂のカントリーハウスでお世話になっており、聞くところカミーさんはそのお店の常連さんだったらしい。

こんなミラクルが起こると日常により色が広がる。とても嬉しかった。

 

そしてある日カミーさんから連絡が入った。

センキヤを卒業することになったと、そしてそこで弾き語りとDJをお願いできないかと。

もちろん出たいに決まっている。あんこのイベントだぜ!?

 

タイミング良くちょうどスプラトゥーンのフェスTで「あんこTシャツ」がNINTENDO TOKYOで販売されており、Sサイズしかなかったけど買ってしまった。

それほどに気合いが入っていた。

 

いつもバンドの時はプラス5人いて、私は横で見守るに近いポジションで前に出ることはしないのだが、弾き語りとなるとそうはいかない。

慣れないところ緊張もしたのだが、ありがたいことに多くの方に集まっていただけた。

 

私のあんこへの愛、そしてそれを作ってくれる人へのリスペクトを込めて「あんこのうた」という曲を作って演奏した。

弾き語りとなるとどうしても内向的になってしまう。

しかし、この日はプレゼントを渡す勢いでやってみよう!とこの日だけのセットリストで挑んでみたら、とてもスペシャルな空気が会場に溢れた。

 

こ、これか・・・!?と何かを少し掴めた気がした。

 

ライブ後、物販で用意した手作りステッカーは好評で全部人の手に届いた。

QRで三曲+ラジオが聴ける「どら焼きくんステッカー」だ。

 

そのライブにはなんと大原大次郎さんも来てくださった。

SAKEROCK星野源のデザイン周りをやられていた最高にかっこいい方である。

 

高校生の頃、なけなしのお小遣いで星野源のツアーに参加して、必ずやタオルだけは買おうと物販によく並んだ。

そのタオルとは学生生活をほとんど共にして、未だに愛用している。

 

一時期はそんな大原さんのデザインに憧れ色々描いていた頃もあったが、結局自分には可愛いキャラクターしか描けない・・・と悟ったタイミングがあった。

そう、もう私にはムラビトくんやどら焼きくんしか描けないのである。

 

しかし、この日そんな大原さんが私のステッカーをゲットしてくれたのだ。

そして、帰り際にふと見かけた──

 

大原さんのスマホケースにどら焼きくんがいる!?!?!?!?!?

 

もはやパニックであった。

コロナ禍で厚塗りなども練習したが、結局シュールなキャラしか描けない・・・と生まれた「どら焼きくん」が、まさかの憧れの大先輩のスマホケースで過ごしているなんて・・・!!

本当に嬉しかった。

 

しかし、考えてみたらえらいこっちゃ。

もうこういう歌、絵しか描けない・・・と残った何かで作ったものがいろんな人の手に渡り、それぞれの生活にこっそりいるのだ。

嬉しい・・・。

 

帰りがけにカミーさんともゆっくりお話しができた。

いやあ、とても嬉しかった。よしっ作戦成功だっ!とこっそりガッツポーズであった。

 

赤坂に向かう道中であんこをつまみ食いした時に思った。

わお、これは全力であんこが好きな人だと。クレイジー

だからこそ、演奏もDJも自分なりのリアルを詰め込みました。

 

あんこの甘さに嘘はない。

 

カミーさんとまた会う時はあんこフェスだ!!

 

 

一旦休憩。

いや、簡潔に書くの難し!!

んん〜〜、方法を一度変えてみよう。

 

一行、今思い返した感想を簡潔!!!!!に書く。

これで行こう!!

 

 

「呪いに見つめられ、また睨みつけている」(03.12)

 

センキヤで大原さんがおすすめの映像作品を教えてくれた。

その中でA24制作のドラマ「THE CURSE」がとても面白かった。

 

このドラマは画面作りがとてもユニークできっと好きだよと教えてもらったのだが、まさに癖と言えるほどに最高であった。

我々視聴者は、常に彼らの動向を何かに隠れて見つめているような、そんな画面で物語は進む。

 

ドキュメンタリーなのかコメディなのかホラーなのか。

漫画「ドロヘドロ」でもカースという呪いを使うキャラクターが存在する。

呪い。

 

大学の民俗学部にいた頃に聞いた話がある──とまで行くと長くなるから割愛!!

 

結:最高の作品で、呪いは睨み返して突破口を見出すしかないのだ。

 

 

「花が、空中ウォークの花が咲く」(03.16)

 

DEMO制作を順調に?ハードに?進めている。

一通り録り終えてメンバーのみんなと回転寿司へ行った。

 

高い。こんなに高かったっけ?

うげぇぇぇぇとなり、店を出て疲れ果てた私はおふざけで「空中ウォーク」をやってみた。

 

あれ・・・?できている・・・・・!?

 

あれ・・・?という空気感がフワッと生まれた。

あれ?少しできてね??

 

まさかここに才能があるとは。

空中ウォークの才能。

 

なんだそれ!!

 

しかし、練習もしたことなければイメージもしたことなかった・・・ってことはセンス??

 

その後、昼夜逆転した生活で制作に行き詰まったりすると、深夜の住宅地に出て空中ウォークで散歩するという趣味が生まれました。

 

めでたしめでたし(?)

 

 

「ワイルドハニーで買った本が光る」(03.20)

 

新体制に向けていろんなことが少しずつ進んでいる。

場所は基本的に誰かの家だ。

 

鍵盤のシンジくんの部屋に初めてお邪魔した時に驚いた。

大学の頃、初めて丸山くんの部屋にお邪魔した時のような驚きがあった。

 

自分がこれは良いぞと人知れず集めてた画集だったりが、本棚にこそっといる。

それだけでは終わらず「誰が持ってるんだよ!」と嬉しいあまり言ってしまうようないろんなモノがあった。

ネットもいいが、ぐうぜん最高!!!

 

ここずっとスケボー周りにハマっているのだが「FUCK YOU HEROS」という写真集には本当に度肝を抜かれた。

 

かっっっっっっっっっっけえええええええええ!!!!!

 

グレンEフリードマンの写真集である。

スケートボーダーからパンク、ヒップホップなどのカウンターカルチャーが爆発している作品だ。

 

写真は基本画面で見ることしかなかったが、生まれて初めて写真集でこれはかっこいいと思えた。

「何か感じないといけない」という働きもなく、射止められたような感動があった。

 

私の好きだなあって追っている作品を作っている人ってみんな優しい。

なのに、それと同じくらい、またはそれを凌駕するほどにクレイジーでパンクなのだ。

この認識が当たり前の感覚になっているが、改めて考えると変で良いなあ、とグッと来てしまう。

 

私が上京する前に今池のワイルドハニーというレコ屋のおっちゃんが「君はこれを買った方が良い」とおすすめしてくれたとある本がある。

当時は、いや、高いなあ!と思いつつ渋々買ったのだが、それはある種私の未来を作ったと言っても過言ではない一冊となった。

その一冊がシンジくんの部屋にはあったのだ。しかも続編まで・・・。

 

これがなんの本かはまた語る時が来るだろう。

 

その後、みんなは先に帰り「朝までになっちゃうかなあ」とシンジくんは鍵盤のRECを始めた。

するとすぐに良いメロディが生まれて、私はみんなの1時間ほど後に帰ることになった。

 

部屋というのは不思議である。

あのとき絶対に繋がらない、それでいいやと思っていた部屋が、また誰かの部屋と繋がっていくことがあるのだ。

それがいつか時間も生活様式も違う人の部屋まで繋がっていったらどれほど嬉しく楽しいものか。

作るぞ!

 

 

進化ツアー東京(03.22)

 

もう、全てをそこに、あのライブに置いてきた。

メンバーと積み上げてきたモノ、音楽、世界。

 

本当に多くの方に来ていただけ、それにあんなにも会場に熱気が発生したことが見たことなかったので、本当に嬉しかった。

改めて、みなさん本当にありがとうございました。

 

今回で最後になってしまうメンバーもいるけれど、これはみんなの進化ツアー。

お客さんも含めた進化ツアーなのだ。

 

あの熱気で満ちる空間。

その立ち上る湯気の粒子、額からの汗、飛び交う音の粒で目の前が光っていた。

それはみんなが、お客さんが進化していく光のように思えた。

 

これ以上語ることはないだろう。

あの時の音を身体に溜めて、それぞれの日常ハードコアに戻っていくのである。

また、いつか繋がった時空で会おう。

 

 

UDAGAWACHOOO LIVE!!(03.24)

 

セッティングをしているときにマスターと雑談をしていたら驚くことがあった。

「ローリング内沢さん、ここでもDJされてるんですね!」と話しかけたら「よく知ってるね、ここでイベントやってたんだよ」と。

 

ローリング内沢さんとは、ファミ通のライターであり、今もなおクロスレビューのレビュアーとしても活躍されている方だ。

そんなローリングさんとは以前リリースしたZINE(攻略本)でまさにクロスレビューに参加していただいたご縁があった。

 

そもそも私がローリングさんを知ったきっかけは「ファミ通WAVE」というDVD付きの雑誌だ。

そのDVDの「ボーズの○○タイム」という番組が大好きで、未だによく観てしまう。

 

そんなお話をマスターさんにすると「まさにそのイベントをここでやってたんだよ」と。

 

ええええええええええええええええええええええ!?!?!?

 

ボーズさん(スチャダラパー)も来てたんですか?と聞くと「ボーズはいなかったけどね」と。

仲の良さそうな呼称・・・!?ご友人・・・!?と熱を急いで落として「そうですかあ」と落ち着いて当時の話を聞いたりした。

 

いやあ、これはなんたるぐうぜん。

びびびっときた場所にはやはり”びびび”があるもんだ。

 

ライブ本番は、THE自分で言うのはなんだが、伝説と言えるライブとなった。

これはそのいつか語られる日が訪れることを願いながら頑張るしかない。

 

この6人で集まれたのも、本当にぐうぜんだ。。

去年とは比にならないペースでぐるぐると回っている。

 

何も進展しなくて地獄の空気になることもあれど、とにかく面白い。

じゃんけんポイで、見たことも聞いたこともないキュンとくるポイ!が出る瞬間の高まりよ。

 

演奏が終わり、久しぶりにお酒を呑んだ。

そうしていると、とある話をいただいて突然この春先の自分がどうしているのかいよいよわからなくなった。

つまり、ワクワクが訪れたのだ。

 

4年間バイトしたのも渋谷の宇田川町。

最終出勤日の帰り道のことを思い出した。

奥渋谷から自宅に戻る代々木八幡あたりで「くそう!!!!」と謎のくそう!!!を言い放ってまっっくらな道をチャリンコで走ったこと。

 

くそう!!!!は何か願いでもあるのかもしれな。

その人だけの絶対がある、と言うことだ。まだ残っている。

 

みんなバラバラで帰っていく。

私はチェに乗せてもらい車で帰り、その道で牛丼屋に行った。

松屋のハンバーグはやっぱうめえ。

 

宇田川町にはいろんなご縁があるようだ。

ここからどこに続いていくかわからないが、進化ツアーで燃え尽きて終わらずよかった。

新シリーズにケツをたたかれるような、ワクワクに向かって血と汗と涙と虚無を渡っていきたい所存である。

くそう!!!!!

白々しさを超えるには(03.03)

編集作業でお世話になっており、近年DJでも活躍している小島えもと東京ドームで開催されているオードリーのオールナイトニッポンのイベントへ行った。


さすが細かい男である。展示を見て→飯を食って→謎解きをするという完璧のスケジュールを組んでくれた。

もうこれに跨がれば一日楽しめるぞというトロッコが目の前にあったのだ。

それはもう〜もちろんありがたく便乗させてもらった。


あの東京ドームライブのことはいまだに1日に数回思い出す。

それを作った人たちの血と涙の結晶といえる歴史の跡を追うのだ。



中華を食べながら「最近、若林のキューバの本を読んでてさ」と『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』の文庫本をリュックから取り出した。


「仕事ライクな関係性に居心地の良さを感じる。そこに白々しさはない」(うる覚えのため全然違う文章かもしれないが)


小島氏が「ちかとくんの感覚ってまさにこういう感じなんだなって思ったよ〜」と話してくれて、うぉ・・・ありがたすぎる・・・と思ったと同時に申し訳ないことを思い出した。



バンドの攻略本を作るのは、本当に想像以上のHPとTIMEを要いた。

それに最後まで付き合ってくれた小島氏には本当に頭が上がらない。


しかし、とある日に事は起きた━━

それぞれの1日を終えた深夜に通話は繋がれ、作業の確認をして各々進める日々が続いた。

そのとある日は、流れで作業通話になった。


普段からなんでもない、ただふざけた通話をする仲で、作業を進めながら今日も今日とて雑談をしていた。


「〜〜の締め切りがやばい」

「〜〜をやんなきゃいけない」


公園でフリスビーを投げかうように、作業は進んでいく。


「〜〜どうしてるんだろう?」

「〜〜が面白かった」

「〜〜がうまかった」


ベンチに座って一息つくように、作業は進んでいく。


「〜〜のもめちゃくちゃ美味かった」

「あ、すみません、通話切ってもいいですか?」

 

 

「え!?!?は!?!?!?!?」


小島氏のあのスピーカー越しの声色を忘れることはないだろう。

こんな夜遅くまで作業を進めてくれ、耳より情報を共有してくれた返しに「あ、すみません、通話切ってもいいですか?」は紛れもない「え!?!?は!?!?!?!?」である。


う◯こを漏らしそうになった瞬間に一気に冷静になる、あの感じだ。

私の何かがシャットダウン、もしくは漏らしそうになり一気に冷静になった上での寒暖差甚だしい提案である。



中華屋にて、その時のことがフラッシュバックされた。

いやあ、これは流石に直さなければならない部分である。とても失礼なことをした。


小島氏からしても不思議であったのだろう。私もなんでそうなってしまうのか現在模索中なのであるが、さすが紐解きニストである。

しかし、実際そうなのである。


誰かと遊ぶ=打ち合わせ→作品作り、なのである。


バンドメンバーとも、音楽をやるぞということで集まり共闘してる感覚でいるが故に、ある種仕事ライクでいると時に良くない方へ傾くこともある。


「ひとりで居られる」ということは時にマインドを強く持て過ぎてしまうことに繋がるのだ。

だからこそ、時になんか白々しく感じてしまうことがあるのだろう。


それでいうと私には”友達”はあまりいないが”おともだち”はいるのだ。(もちろんあの二人の関係性に勝るものはないが)



これは、リアルヒップホップでいたいと白々しさをなるべくカットしてきたことが発端なのかな、と思ったがもう一つあった。


私はポケットモンスター育ちなのだ。

サトシが持っているものこそ”おともだち”の感覚だ。


サトシとバタフリー

サトシとリザードン

サトシとグライオン

サトシとゲッコウガ


時に共闘し、分かれ道で手を振って振り向かずそれぞれの先に行く。

絶対的な何かと繋がっている感覚を持って。


しかし、思った以上に人は人と連絡を取るものだ。

私もサトシとリザードンが分かれた後にポケナビで連絡を取り合っている光景を当時見ていたら変わったかもしれないが、それぞれの世界線を生きていくものだと思っていた。


人生をアドベンチャーだとどこか捉えているそれはただ中二病を拗らせているということなのだろうか。


私はきっと「再開」が好きなのかもしれない。

それは何年越しではなく、数週間の単位でも。


あの時〜〜って話してたけど、おおお〜〜〜!!みたいな感覚。

そこに白々しさはないのだ。


サトシがリーグで、リザードンの力が必要となった時に帰ってきたあのカタルシス

それこそ「強くなって、また会おうやぁ」である。



オードリーの15周年展はまさにその結晶であり、痺れた。

そこにこそ生まれるドラマがある。


ここにたどり着くように連鎖を仕掛けたのも、もしかしたら紐解きニストの手中だったのかもしれない。

恐るべし、紐解きニスト・小島えも。


銀たこを食いながら今後の話をして、ドームから駅までの帰りに心底どうでも良い話で盛り上がった。

本当に最低にどうでも良い話だ。そして、お互い帽子を深く被り駅で解散した。


楽しかったなあとぼんやり揺れる帰りの電車でふと思った時に、この先のきっと現実になると良いなあということが色々浮かんだ。

何か作りつづけることだ。

正しい欲と電波(03.02)

多様性という言葉がなんだかずっとしっくりこない。

なぜか凄くもどかしい。


何か自分にない感覚を”多様性”と括ることによって「理解しているよ」というのは声の大きい挨拶のように感じることが時々ある。

楽に安心できる括る側の勝手じゃん。


「多様性を受け入れる」という言葉もあるが、なんで”受け入れる側”前提なのだろうか。また、そういうものに限ってポスター等広告になりがち。


テレビを観ていてもやっぱり自分と違う世代の人のリアクションも違う。だから、きっとこれらの言葉は人生の大先輩の層に向けてなのだろうと思う。

しかし、そのどこかで誰かが”勝手に”申し訳なさを感じてしまっている人が存在するということには気づけよ、なんて思うことがある。

擬態をせざるを得ないのだ。


しかし、こういうことは時代が動かない限り、本当になんともならない。


はああ、と思っていた2021年、私は朝井リョウの『正欲』という一冊の本と出会い、そのなんともならないが蔓延している世の中にも絶対といえる光を見出すことができた。



「生まれ変わったら道になりたい」

 


高校の頃、変わった性犯罪のニュースを観て吃驚した。

道路の側溝に入り込み、盗撮をして捕まった際に放った一言であった。


当時、私は小説というより小説家にハマっており、BSなどでやっているトーク番組をよく観ていた。

朝井リョウ村田沙耶香西加奈子もいたかな?普段感じていることなどをフリートークする番組だったのだが、朝井リョウがこの話題を出して「あ!あの変な人のやつだ!」と笑うような展開を予想していた。

 


「生まれつき、たまたま象じゃなくて人間を恋愛対象に見えているだけ。だから、象しか恋愛対象に見えないというのも普通にある話。だから一概に変態だ!と笑うことはできない」

 


ヒヤッとした。「うわ、変態じゃん!」と面白がっている自分が確実にいたのだ。

その時、自分はセーフティーな側に立って安心したかっただけなんだなと自覚し、心底愚かだと思った。


当時、私が主観家庭教師モノばかり観ていたというのも本当に偶然の話なのだ。(※当時!!!!!!)

しかし、その感覚が全くない人からしたら、ドン引きされて「キモ!!」と大笑いされるだろう。

いや、確実にキモくはあるか。しかし、そういうことなのだ。


もちろん、被害者を生むことはよくないし、犯罪に手を染めてはいけない。

しかし、それと同じように「そうするしか生きられない」人がいるということも普遍的に感じていないと、生きるということに対してフェアじゃないなと思った。


それからニュースを全く観られなくなってしまった。

 


時を経て、この本が発売されていろんなモノが救われる想いになった。(作中の人物たちは完全に救われたわけではないが)

自分の場合、このような結びつきがあったからこそ、なかなかオススメすることもできなかったし、読んだということもSNSなどに挙げずソッと胸にしまっていた。


去年、新垣結衣稲垣吾郎をメインキャストにスクリーンで上映された。

私は劇場に行けなかった。救われたと思った感覚が、手を離されてしまったらと考えたら緊張してしまい行けなかった。


しかし、配信(レンタル)されていることに気付いて、ついに観ることにした。

そして、劇場で観なかったことを本当に後悔した。


まず、新垣結衣の演技が本当に本当にすごかった。

あの本の息吹が映像に宿っていた。


演技がどうこうといったことは全く言える立場ではないが、これはスクリーンで観ることでしか、このリスペクトは飛ばすことができないと凄く後悔した。


THE・華やかに魅せるシーンは冒頭のタイトルが浮かぶシーンのみで、映画全体の眼差しの加減も絶妙で本当に良かった。

最高の映画を、ありがとうございました。

 


「この星に留学してるって感覚」


この間、身の回りで過渡期な人が多いよねという話題になった。

「でも、なぜか土屋さんからはあまり感じない、安定している」と言ってもらえた時に反射で「いや、もう生まれた時から過渡期は始まってるのよ」と私は返していた。


だからひっくり返ってそう見えるだけじゃない?━━口先で話ながら「いや、確かにそれやん!」と共感する自分がいた。


「この星に留学してるって感覚」


私が学生の頃はBBQをするやつが寒いというより、BBQを寒いと思うやつこそが寒いと「観察者」という言葉をよく耳にした。

そして、私もよく後者のほうで周りから言われることがあったのだが、そうせざるを得なかったのである。

 

その類のことを言われる度にに分かってないな・・・と思いながらも説明しても伝わらないだろうと適当に済ませてしまった。


観察ではなく、観測しなければ同じポイントで笑えないのである。

状況はまるで違えど、この作品のこの一文にどれだけ救われたことか。



そして、またこの作品の彼らとは関係性がまるで違えど、今、どこか近い感覚の人たち(もちろん音楽を聞いてくれている方々含め)と音楽を通してご縁があることは本当にありがたく、この上なく嬉しい究極のぐうぜんだ。


私はその方々が発する電波が大好きであり、とても大切だ。

お互いに別の星の生き物だとしても、その電波と電波で行われる「つうしん」がたまらなく好きなのである。


大袈裟だが、紛れもなく音楽や好きなことによって私は人、世界とリンクできている。

だからこそ、時に強く素敵な結びつきが生まれるのだ。

この留学している感覚も捨てたものじゃない。


そして、当時私の居れる時空を作ってくれたのも愛すべき変態の先人たちである。

 

人ができるだけ無理せず楽しめる箱庭を作れたらなあという、ややお節介な気持ちも含め、現在私はこっそりと曲を作ったり制作に打ち込んでおります。


本、映画の先の彼らもどこかでこっそり輝いてることもややお節介に祈っている。

カミナリ / ぶりんぶりん(02.29-03.01)


「カミナリ」(02.29)


今私が個人的にイケてる!最高!!と思うのはお笑い芸人のカミナリのYouTubeである。


ゲーム系の映像ではその昔「ファミ通WAVE」という雑誌についていたDVDの”ボーズの◯◯タイム”が好きすぎて、それに勝るものはいまだにないと思っている。

とにかくクレイジーで、純粋なゲーム愛に溢れているのだ。


いわゆるYouTuberには疎いのだが、ちょんまげ小僧とすしらーめんりくくんは大好きだ。

その他はmarvel関連の動画か、RTAやお笑い芸人関連の動画が好きでむさぼり観ているのだが、その中でも一番イケてる!!とテンションが上がるのが「カミナリの記録映像」「カミナリの記録ゲーム」だ。


そのイケてる!度は◯◯タイムにも匹敵する。

二人はBボーイでもあるため、スチャダラパーの遺伝子をもびびびと感じてしまう。


そんなカミナリの次なるイベントが楽しみすぎてワクワクしちゃう。

そんな渦中に居れて、本当に嬉しい。

 

 

 

 

 

 

「ぶりんぶりん」(03.01)


深夜、誰も乗っていない電車に乗るとテンションが上がる。

いわゆる”外”の中にある”内”なる世界。ポケットディメンションなのだ。

今日はバンドの新曲を一度録音してみよう!の日であった。



鍵盤のシンジくんがこの間、深夜練習の時に「音は降ってくるものだと思っている」とすごくわかるなと思った。


教科書的なものがコミニュケーションの上で重んじられることはよくあるが、自分の思う表現は”淡い”の中にしかないと思っている。

言語化できないモヤモヤや心象風景を外に出してみたいのである。


その後にまさに「これじゃん!!!」と満場一致するようなメロディを生み出し、テンションの上がるみんなにただグーサインだけをだすその様に、なんとストリートな・・・としびれた。


今日も朝までひたすらぐるぐるとふざけながらも、それぞれの最高到達点をガレージバンドに打っていく。



Creepy Nutsの”Bling-Bang-Bang-Born” をずっと聴いている。

ナードな人間でも、それをストレートに歌えばヒップホップになる、と私もヒップホップを好きでいても良いのだよと教えてくれたヒップホップユニットである。


そんな”たりないふたり”もブリンバンバンボーンである。

ブリンブリンに歌い上げている、その状態がまさにフェイクがなく本当にしびれるのだ。


”It’s 生身 It’s 生身 yeah yeah yeah yeah”。


初めてバンドでCDを作ろうとなった時、まず生まれたコンセプトが「身の丈に合う録音」であった。

いろいろマイクや場所を借りることもできたが、自分たちの生活圏内にあるモノで撮ろうと、祖父母の倉庫で母親のiPadでマイク一本で制作した。


それから徐々に、チェの実家のリビング〜スタジオ〜と変化してきた。

そして、次の作品はどうするか。



朝に焼ける空に手応えのあったデータが眠る井の頭線のホーム。

私たちのリアルな生活(ストリート)が詰まっているが、それは回り回って伝わるくらい。


きっともっとこれはいろんな人の生活に届くのではないかなと、きっと楽しい曲になると確信しているので、ぜひ楽しみにしていてほしいですぜ。

Blingにはまだ程遠いが、ぶりんぶりん。

渋谷のはずれのど真ん中(02.28)

都内で一番落ち着ける場所ってもしかした渋谷のはずれなのかもしれないとふと思った。


都会は記号的と言われるが、例えば中央線沿いの町も落ち着いてはいるが、もしかしたらそっちの方が記号的な場合もあるのではないかと話を聞いていて思うことがある。


記号的になるということへは憧れはある。

しかし、自分という存在は街や町にとってプラスに働かない、ノイズになってしまう故に落ち着かないのである。


これは学生生活の時も同じ。それが当たり前の人からは”カウンターカルチャー”と見受けられることがよくあるのだが、それもそれで擬態なのだ。

そう思うと実際自分の正体はもしかしたら虚無なのかなと思うことがよくある。


例えば、パルコの誰もいない屋上や東急の近くの蕎麦屋さん、ベローチェはそんな自分を許してくれる。

観光スポットになりうる場所を「外」として、部屋の地続きを「中」とすると、ここらは”外にある中”なのである。


だから、楽しい。

いわば、ハッピー虚無なのである。



今日はそんな宮下パークから少し歩いた場所にあるよく行くカフェにて元バイト先で知り合った二人とお茶の約束をしていた。


二人とはコミケにも出た仲でだいぶ遅ればせながらのお疲れ様会でもあった。

一人は10代の頃から知ってる絵がめちゃくちゃ上手な帰国子女の通称学ハン。(Gと略すのはなんなので・・・ゲーム名)

もう一人は、当時から何か近い感覚を持っているような気がして不思議と仲良くなった先輩のHさん。

近況報告をしながらチキンの乗るワッフルを頬張った。


ここでまたMBTIの話になった。

そして、驚くことにHさんも私と同じINFPであった。

上京してからありがたいことに一緒にお茶できる人はほとんどが同じ結果が出て驚いている。


学ハンはまた違う結果なのだが、内向的が90%なんだよ!?と見せてくれた結果に笑ってしまった。

一度海外に行って日本的なものがどうでもよくなった、吹っ切れたとよく本人は言っており、だけど根本はこうなんだよと話していた。


その時に枕詞的なやりとりって海外であるの?と聞いてみたら「日本だけじゃない?」と学ハンは言った。



現在、これじゃいかんと日常の常識というものを日々勉強中なのだが、あらゆる側面でこれまでの経験で無意識に持ってる勘じゃ通用しないなということがある。


私は学生の頃にヒップホップが好きになってから「白々しさ(フェイク)」というものをできるだけカットしてバイブスだけを信じるように決めた。

それから、その場の環境を生き抜くための友達作りはやめて、飲み会に行くこともやめた。

ゼミの先生が面白くて好きで、卒業式の日もゼミの資料整理のバイトだけ出て出席せずに帰った。


今思えば、それらも全て大事な工程なのだ。

この国、いや、この星で生きるには。


部活の合宿の飲みの時間、おぅ・・・と思い、なんかあったよなと屋根裏部屋に行ってみるとそこに既に人がいて、そういう人と仲良くなりがちであった。

もちろん彼はすぐに部活をやめて、私もその後にやめてしまった。

なので、基本近い星の人とは結果的に疎遠になりがちなのである。

それぞれの虚無へ帰っていくのだろうか。


結果「淡白」と受け取られ、前に出れば出る杭となり「図々しい」と取られる。

THE MUZZZZZZZZZZZUである。


そんな話をしていたら「図々しいって思われることあるよね」と学ハンは言った。

かなり年齢は若いのに大御所並みに肝が座っている人で同じような体験を話してくれた。


結果的に「調子に乗る」とはなんだという話になった。

自分も含めてみんな「調子に乗った」と周りに思われないようにバランスを取っているのではないかとふと思ったことがあったのだ。

「調子に乗る」と「図に乗る」は違うのだ。



H氏は今日のお茶会に参加することに対して少し勇気が必要だったと話してくれた。

私たち二人は既に退職しており、その二人と会うのは少し勇気が必要だった。しかし、行くことに何か起きる予感がしたと話してくれた。


私は物好き仲間と久々に話せるの楽しみ〜というテンションであったため驚いた。

H氏の話を聞いて、思いついたアイディアや方法をとにかく話まくった。

話を聞けば聞くほど、H氏の喉仏あたりに眩い光が見える気がしたのだ。

その光を見たいではないか。


そんな話を聞く中で、あとは一度その生まれた調子に乗ってみることが大切なのかもしれないという話になった。


小学生の頃、リコーダーでマリオの地上BGMを吹いていたら「調子に乗っている」と言われパッタリやめてしまったことがあった。

もし、あの時続けていたら今やどうなっていたか・・・!?


なんて冗談だが、その時に言ってきた人はクラスの人気者。自分より目立つ人が現れて自分のポジションのためにもそう指を立てたのであろう・


我々は人間的に自分に自信はまるでなくても、何かが好きだったり、その愛を持って何かを作る自信はきっとあるのだ・

きっと無意識の中にあるのだ。

それこそもしかしたら虚無の中で光っているのかもしれない。


図々しいと指をさす人こそ、その自信が逆転しちゃってるだけだから、もう気にせず乗るべき調子は乗ってこうよ。

そんな話をしていたら、それが無理ならアメリカへ行こうと学ハンは言った。



別れ際にまた会うのは半年よりもっと先かな?なんて話になった。

きっと明日からはまた自分のことで精一杯になり、二人のことを案じ続けることはできないかもしれない。

しかし、時に分かつ空を気にしながら過ごすのであろう。

また、はずれたところでこっそりど真ん中の話をしよう。