こしあん日記(Koshiahh’s Diary)

MURABANKU。の土屋慈人の日常系

正しい欲と電波(03.02)

多様性という言葉がなんだかずっとしっくりこない。

なぜか凄くもどかしい。


何か自分にない感覚を”多様性”と括ることによって「理解しているよ」というのは声の大きい挨拶のように感じることが時々ある。

楽に安心できる括る側の勝手じゃん。


「多様性を受け入れる」という言葉もあるが、なんで”受け入れる側”前提なのだろうか。また、そういうものに限ってポスター等広告になりがち。


テレビを観ていてもやっぱり自分と違う世代の人のリアクションも違う。だから、きっとこれらの言葉は人生の大先輩の層に向けてなのだろうと思う。

しかし、そのどこかで誰かが”勝手に”申し訳なさを感じてしまっている人が存在するということには気づけよ、なんて思うことがある。

擬態をせざるを得ないのだ。


しかし、こういうことは時代が動かない限り、本当になんともならない。


はああ、と思っていた2021年、私は朝井リョウの『正欲』という一冊の本と出会い、そのなんともならないが蔓延している世の中にも絶対といえる光を見出すことができた。



「生まれ変わったら道になりたい」

 


高校の頃、変わった性犯罪のニュースを観て吃驚した。

道路の側溝に入り込み、盗撮をして捕まった際に放った一言であった。


当時、私は小説というより小説家にハマっており、BSなどでやっているトーク番組をよく観ていた。

朝井リョウ村田沙耶香西加奈子もいたかな?普段感じていることなどをフリートークする番組だったのだが、朝井リョウがこの話題を出して「あ!あの変な人のやつだ!」と笑うような展開を予想していた。

 


「生まれつき、たまたま象じゃなくて人間を恋愛対象に見えているだけ。だから、象しか恋愛対象に見えないというのも普通にある話。だから一概に変態だ!と笑うことはできない」

 


ヒヤッとした。「うわ、変態じゃん!」と面白がっている自分が確実にいたのだ。

その時、自分はセーフティーな側に立って安心したかっただけなんだなと自覚し、心底愚かだと思った。


当時、私が主観家庭教師モノばかり観ていたというのも本当に偶然の話なのだ。(※当時!!!!!!)

しかし、その感覚が全くない人からしたら、ドン引きされて「キモ!!」と大笑いされるだろう。

いや、確実にキモくはあるか。しかし、そういうことなのだ。


もちろん、被害者を生むことはよくないし、犯罪に手を染めてはいけない。

しかし、それと同じように「そうするしか生きられない」人がいるということも普遍的に感じていないと、生きるということに対してフェアじゃないなと思った。


それからニュースを全く観られなくなってしまった。

 


時を経て、この本が発売されていろんなモノが救われる想いになった。(作中の人物たちは完全に救われたわけではないが)

自分の場合、このような結びつきがあったからこそ、なかなかオススメすることもできなかったし、読んだということもSNSなどに挙げずソッと胸にしまっていた。


去年、新垣結衣稲垣吾郎をメインキャストにスクリーンで上映された。

私は劇場に行けなかった。救われたと思った感覚が、手を離されてしまったらと考えたら緊張してしまい行けなかった。


しかし、配信(レンタル)されていることに気付いて、ついに観ることにした。

そして、劇場で観なかったことを本当に後悔した。


まず、新垣結衣の演技が本当に本当にすごかった。

あの本の息吹が映像に宿っていた。


演技がどうこうといったことは全く言える立場ではないが、これはスクリーンで観ることでしか、このリスペクトは飛ばすことができないと凄く後悔した。


THE・華やかに魅せるシーンは冒頭のタイトルが浮かぶシーンのみで、映画全体の眼差しの加減も絶妙で本当に良かった。

最高の映画を、ありがとうございました。

 


「この星に留学してるって感覚」


この間、身の回りで過渡期な人が多いよねという話題になった。

「でも、なぜか土屋さんからはあまり感じない、安定している」と言ってもらえた時に反射で「いや、もう生まれた時から過渡期は始まってるのよ」と私は返していた。


だからひっくり返ってそう見えるだけじゃない?━━口先で話ながら「いや、確かにそれやん!」と共感する自分がいた。


「この星に留学してるって感覚」


私が学生の頃はBBQをするやつが寒いというより、BBQを寒いと思うやつこそが寒いと「観察者」という言葉をよく耳にした。

そして、私もよく後者のほうで周りから言われることがあったのだが、そうせざるを得なかったのである。

 

その類のことを言われる度にに分かってないな・・・と思いながらも説明しても伝わらないだろうと適当に済ませてしまった。


観察ではなく、観測しなければ同じポイントで笑えないのである。

状況はまるで違えど、この作品のこの一文にどれだけ救われたことか。



そして、またこの作品の彼らとは関係性がまるで違えど、今、どこか近い感覚の人たち(もちろん音楽を聞いてくれている方々含め)と音楽を通してご縁があることは本当にありがたく、この上なく嬉しい究極のぐうぜんだ。


私はその方々が発する電波が大好きであり、とても大切だ。

お互いに別の星の生き物だとしても、その電波と電波で行われる「つうしん」がたまらなく好きなのである。


大袈裟だが、紛れもなく音楽や好きなことによって私は人、世界とリンクできている。

だからこそ、時に強く素敵な結びつきが生まれるのだ。

この留学している感覚も捨てたものじゃない。


そして、当時私の居れる時空を作ってくれたのも愛すべき変態の先人たちである。

 

人ができるだけ無理せず楽しめる箱庭を作れたらなあという、ややお節介な気持ちも含め、現在私はこっそりと曲を作ったり制作に打ち込んでおります。


本、映画の先の彼らもどこかでこっそり輝いてることもややお節介に祈っている。