ある日A氏といつもの様に正解の無いぐるぐる話を話していた。すると「え、それって土屋くんの自己肯定感の低さからきてんじゃね?」と、思わぬ会話の分岐が発生したじろいだ。
え、わい自己肯定感低いの・・・!?
だってさあ〜とA氏は話を続けた。それはそれは、もう両膝打ちもんであった。クゥゥゥ〜〜〜
関係ないと思っていた言葉がふいに他者によりこの身に関係する言葉と化した。そういう瞬間って空間がぐんと拡がるような不思議な感覚がする。
そもそも私は自己肯定感という言葉を知った時からなぜか「何それ、嘘くさ〜〜〜」と眉唾もんだな!?と睨んでいた。
自己肯定感を高める?いやいや、それよりも根本的な解決に向かった方がちゃんとクリアできないでしょ、そして次に行けない、と。
お腹痛くなる案件だとしても、その問題には何かしらのヒントがきっと隠れている。それを自己を高めることによりぼやかしてしまったら凄く勿体無い気すらしてしまうのだ。
それに、そもそも自己肯定など高められる"自信"が私には無い。どれほどって??
THE⭐︎ZERO!!!!!!
清々しいほどに純度100のZEROである。
今更ながら「自己肯定感 意味」と検索した。自己肯定感の低い人の特徴を伺い、スワイプしていくと自己肯定感を高める方法の例があった。
「今の自分は情けないところもあるけど、大丈夫」。
え・・・!?
それ絶対繰り返すやつやん!?それで大丈夫って…、アンタバカッッ!!??
胸の内にツンデレを飼い慣らしているのか、はたまた性根が腐っているのだろうか。きっと後者であろう、全然腑に落ちない。
正しくは「今の自分は情けないところがある、そうです私は情けない人間です、はい」だろう!?
謎の騙されんぞ!?メンタルが生まれてしまったので高め方は無視することにした。
私が知りたいのは自分がどんな人間なのか、そこなのだ。
自己受容感、白黒思考、自己成就予言。ふむふむ、中には少し耳の痛い、つまりはきっと掠っているものも窺えた。そして、次にその原因をもたらしている諸悪の根源はどこだという話である。
その正体はきっと、自己形成までの過程環境であろう。家庭というよりも"過程"である。
○
今期、日テレで始まったドラマ「だが、情熱はある」が大好きで毎週それを楽しみに生きている。どんなドラマかというと南海キャンディーズの山里氏、オードリーの若林氏のW主人公もののドラマである。
両者のエッセイを軸に、幼少期から現地点までどう辿り着いたかを描くほぼ実話のドラマである。
その二人は当初「じゃない方芸人」と呼ばれ日頃の鬱憤などを笑いで昇華する「たりないふたり」というユニットがある。
この"たりふた"がなければ今の私は成り立っていないといえるほど人生に影響も受けており、2019年のライブをもし観に行けてなかったら、私は実家の愛知で他の何かをやっていたかもしれない。
大学生の頃、私はスプラトゥーンをやるメンバーとバンドメンバーとの時間以外はずっとラジオを聴いていた。本当にずっとだ。
起きて支度をして移動中も、教室移動する時も、帰宅中も、夕食中もゲーム中も、寝落ちするまでも。週に10本は聴いており、オードリーのラジオに限っては3年間で10年分、全部の回を聴いた。もういよいよ色々諦めていた時期であったのだろう、1番の話し(聞ける)相手だった。
若林氏のこれまでは、エッセイや他の文献もある程度読んでいるため、ある程度把握しているつもりだ。
しかし、ドラマではもっと生々しい描写がたくさんあった。ラジオ、エッセイの表現ではエンタメに見せられない生々しさがドラマでは表現されていた。放送される当初、コメディかな?と思ったのだが、それ以上に辛いものがあり、まさに"コメディ"ではあった。
今の若林氏を知っている以上、幼少期〜学生の過程環境を伺うと、そりゃそういう人間になっちゃうよなあ、と思いながら観ていた。やり直せない過去の話であるため、最早誰が悪いの話では無い。
そうなってしまった諸悪の根源はその時の環境であるため、その時に偶々どう潰されて、勇気が出せて、諦めてしまって、おふざけしたのか。
ドラマを観ながらだいぶ自分と置き換えて観てしまうところがあった。
小学生の頃は快活キッズであったが、いつからこんな夜な夜なメンドーな物事をぐるぐる考えてしまうようになったかを思い出してみた。
色んな記憶や感情の暗い大穴に手綱を握る様に徐々に地下へ降りてゆく。
すると、キッズ時代の自分が心に決めていた嘘を発見した。
「真面目なフリしてちゃんと真面目をやろう。そして、いつか見てろよ…」
怖ッッッ!!!???
私は小さい頃から将来は公務員になるという明確な指令が家族から下されており、その中で立ち回ってきた。
案の定、通知表を見ると主たる教科はイマイチ。だが、副教科はオール二重丸。自信はそこにしかなかったため、将来専門学校に行きたいと申し出るも、予備校へ入れさせられるというオチであった。
公務員を目指してほしいという親の気持ちは愛そのものであるということは勿論理解できる。しかし、当時中学生だった私にとっては息が詰まるものであった。え、絶対無理だろ!?と。
その時に思った。きっとこの先親としての安心をずっと突きつけられ続けるのだろうな、と。なので「ラジオがあるので部屋で食べます〜〜あはは〜」と誤魔化し家族の掟を初めて破り、その後一人で部屋で食べる様になった。
それから自分の好きなモノや価値観の輪郭がはっきりしていった。深夜ラジオ、倫理観を覆される様な映画にマンガ、萌えの詰まった深夜アニメにイニシエの作品やバラエティ番組。それらを勉強机のスタンドに立てかけて観て食べる夕食が、当時の私にとって何よりも豊かな時間であった。
しかし、(これも偶々)家でも学校でも趣味に関しては誰にも分かってもらえない。もう、どうせ分かってもらえない!!がベーシックになっていた。
だから映画もカラオケも結果一人で行くことになってゆくのである。
しかし、だからこそ自分の好きなモノ、作品における面白さの自信だけは異常に高かった。絶対的な自信があり、それがなんで好きなのかを徹底的に考えたり掘ったりした。
だから、今でも自分自身における自信は皆無だが、自分の好きなモノやコトに関しての「好き!良い!!」には絶対的な自信がある。
(しかし、それを自分一人で抱えてしまってはとても怖い話である。それをTHE内気な成人男性がどう世の中に伝えていくか、がこの数年の一番の課題なのである。)
結局さ!謙遜ばっかしちゃってさ!
結局”自信”はあんじゃん!!やっぱ自己肯定感なんて関係ない言葉じゃん〜〜〜!
とお思いな脳内会議に居る君(私)へ。
その後私はChatGPTとの邂逅により、より深淵へ向かうのであった。くぅぅ〜〜
○
私は人に相談することが苦手だ。というか上記のような生活であったため、そもそも慣れていないところがあり、相槌の打ち方や諸々が不自然になっていないか気になってしまう。
そして、私は呆然とした面持ちが真剣に聞いてる時の本当の状態なのだが「コイツ聞いてねえな?」とまぁーーよく思われる。だから、過剰に聞くスタイルを取らなければならない=嘘をやりながら真剣に聞く、ということになるのだが、もうそれはコントなのだ。
そうとは言ったものの、近年こんな私でも相談にを聴いてくれる先輩や仲間が居るのは本当に有難い話である。
(コントの向こう側へ行ける時の感動。それは本当に何ものにも変えられないものであるなぁ。)
そんなある日、私はAIであるchat GPTと出会った。
本当にすごい。とても細かく答えてくれるのだ。しかし、そこで出た答えを真実に捉え過ぎちゃうと怖い。それからきっと考える勘も鈍る。
それを考慮して聞く時に「考え得る要因のパターンを幾つか教えて」とお願いしている。
一つの解決したい謎とそれに関連しそうな事象(ワード)をノートに書き殴る。
その「関連しそうな」はあくまで主観的な自分の勘であり、そこに客観的なロジックを聞いてみたいのである。
準備が整ったらGPTに「関連してる?」と聞いてみる。すると「関連してます」と自分では言語化できないボヤけた関連性を具体的にパターンに分けて答えてくれる。
その中で「自己肯定感が嘘くさく感じる理由」を聞いてみた。すると、何パターンかに分けてその要因を出してくれた。のだが・・・。
おいおいおい、穏やかじゃないねえ・・・。
幾つかのうち一つ「自己否定的な信念」という一文が目に飛び込んだ。
自己否定的な"信念"!?!?!?!?!?
いや、持つな持つな持つな!!そんな信念!!
え、わい中高で体育会系の部活やってたのに!?!?"真面目"やったじゃーーん!?!?
読んでみると、自己批判的な考えが根付いている場合に自己肯定感を「嘘くさく感じる」きらいがある、ということであった。
あっ、自分はどうも自己肯定感どうこうの話ではなく?もっともっと地下世界の民なのか…!?
へ、へぇ〜〜、なるほどね…。
ふ、ふ〜〜〜ん…!ええ〜っと…、GPT氏よ。
今後とも仲良くしてくれる?
○
トホホのホ!!!つまりは、自分の好きなことや面白そうだ!という妄想には自信があっても、個の人間としての自信は皆無よりマイナス(⇦new)ということである。
前者は、世の中に出す"外の自分"にはかなり良い効果があるかもしれない。しかし、その反面でそれらを切り離したポツンとした"内の自分"じゃ…「THE・虚無」なのである。
くぅぅ〜〜、トホホのホの字!!!
しかし、それでも強く元気に逞しく(?)今もそして明日も頑張れるのは、かつて大学生の頃にラジオで聴いた作家の朝井リョウのある一言があったからである。
「周りの人よりも多く足を止めて考えてしまう人は、もうそれをプレゼントとして受け取るしかない」。
それがその人特有の視点になったり、ものづくりのアイディアの素材になったりするということだ。
だから、私は割り切れたのであろう。自己肯定感なんてウルセエ!ウルセエ!!
でも、やるんだよ。©️古川未鈴(の方で)
2019年にみなとみらいで観た”たりないふたり”の漫才。心の底からかっけえと痺れてしまった。
足りていなくても、本物の、その人でしか持てない本物の武器が腰にぶら下がっていた。
どんなけ虚無な地下世界でも、それでも地上へ繋がる口を探していくしかないのだ。
ま、こんな謎を夜な夜な考えてゼルダをプレイする時間を削るより、翌朝からすぐに行動に出せば直ぐに済む話なのかもしれない。
けれど、この日常はずっとつづくのであろう。
私の、そして勿論アンタもな!!ハッハッハッハッハ
だが、愛すべき情熱はある暇人よ。MURAバんく。の次なる告知を是非とも楽しみにしといておくれ。