こしあん日記(Koshiahh’s Diary)

MURABANKU。の土屋慈人の日常系。日常の真ん中はこしあん日記

でも、やるんだよ(07.31)

アラームよりも先に目が覚める。微睡むままにレコードをかけてゆっくりと朝を迎える。最近朝がかったるいことがあまりない。

 

寝る前にメモした今日のやることにスケジュールを確認して、あれとこれやんなきゃなあ〜とぼんやり考えながらYOUTUBEでアメコミ周りのお喋り配信を垂れ流して歯を磨く。しかし、そのやるべきことがありがたいことに楽しみな挑戦ばかりで気持ちがスッ切り替わる。そして、図らずもアメコミに関する知識が増えていく。

 

日々がばたつくと己のケアに時間を割けなくなる。歯医者やクリニック諸々。

怠け者of怠け者な私はあまりなるべく外出することや電車で右往左往することを控えていたが、学校の時間割のように組み立てていくとこんなにもいろんなことが同時進行でスムーズに行くんだと驚いた。予定が終わればすぐに踵を戻し次の場所へ向かう。そして、その間にまとめられるものをまとめて考えないといけないことを羅列させて悶々と考える。

 

いや、どれだけ怠けてたんだよとセルフご指導ご鞭撻が入ったところで、このタイム感が自分に合うなあとしっくりきた。

 

そして、日々ふと思いついたどうでも良い妄想や夢見がちなことも全部メモして、寝る前にまとめるだけでこんなにも色んなアイディアの種が用意できるんだあとも驚いた。

そのどうでもいい妄想が時に良い繋ぎ材になって、まさかの「これできるじゃん!」が思いついた時の”びびび”と言ったらたまらない。

 

 

ここ数年”クオーターライフクライシス”という言葉が何かと念頭にあった。20代後半から30代に陥りやすい穴である。ライフステージが大きく変わっていく周囲環境と自分を比べてしまい気を落としてしまったり、アイデンティティを失ってしまいがちな意外と恐ろしい穴である。

 

なぜその言葉が念頭にあったかというと最近のエンタメで”中年の危機”がテーマになっているものが本当に多かった。そして、そこに何処か共鳴してしまうところがあった。

頬に落ちる乾いた焦燥感。何か共通項がある気がして色々掘って感じてみた。その時に、言葉にすれば恥ずかしいが結局「夢」と「目標」を持つことが大切なんだなと心から思った。

 

話を戻すが、クオーターライフクライシス。正直なところ私はあまり陥っていない。

それは、不幸なのか幸運だったのか高校生の頃には「諦念!」という言葉がズドーンと肩にのしかかっていたからである。なので「自分ってこんなんだっけ・・・」と思うことがない。ストレートに「いや、そんな人間だ!」と反語のようなリズムで仮想敵よりツッコミが入る。でも、やるんだよ。そう、私はもう「でも、やるんだよ」一つでやっている。

 

身の回りで聞くその類の相談事やトラブルの問題解決は実は「でも、やるんだよ」でしかないような気がするが、心中を察すると流石にそんなことは言えずになんて答えるべきかわからなくなってしまう。問題解決よりも元気を優先した方が良いのか、しかしこうやって解決されないものがどんどん溜まっていくのは何処か歯痒い。

 

 

私はヲタク性故にセルフケアがうまいのだろうか。

私は日々やることと追っているものを繰り返すだけで時間は過ぎていく。そして、人間故に無意識に溜まっていく加虐性を無意識に人に向けてトラブルになるのもめんどくさいから、合法的にそれを発揮できるオンラインゲームで敵を(画面の向こう側の誰か)叩きのめす!ことで解消している。

 

大学の頃に授業で聞いた「帰属回帰」という言葉がすごく印象的だった。何かショックを受けた時に人はどこを居場所、または依存するかという話で、その時に私は求める先が人じゃなく、好きなモノにしよ〜♪とカジュアルに思うことにしたことがあった。

と言いつつも、昔からそうだったのだ。自分の持っている言語化できない疑問やモヤモヤは人に理解されないだろうと思い込んでいた。だからこそ、それが何なのか輪郭だけでも掴みたくて私は音楽や作品の世界に潜り込んだ。そして、そこには色んなヒントがあって今の私は存在している。

 

中年の危機を迎える頃を不安に思うよりも、今をやれよ!!!と大きめな声を仮想敵はまた挙げているが、クオーターライフクライシスの予兆もこの数年前に何か感じて兎に角回避しないとなと思った。

2,3年前にバンドのツアーで「冬クールツアー」というツアーをやりその時のコンセプトが「季節の中にある”ピュア”を見つける」というものだった。

ここに必ずある!というびびびがあったのだ。

 

それは言い換えれば小学生の頃の自由で制限されない強いマインドを取り戻す、ということだった。この言葉をコンセプトにすればよかったかもしれないが、あまりにも人生!すぎるためオブラートに隠してしまった。

 

その後の今”ピュア”が一体何なのか実態を見つけられたかはわからない。だけれど、何かブレそうになったり何か魂を売らないといけないような瞬間にふと立ち戻って、その”ピュア”をちゃんと大切にしたことによって「セーーフ!」「あぶね〜〜」と危機から魔逃れるようなことがここ数年たくさんあった。そして、大切でミラクルなご縁が生まれたりするのだ。何かを感じるような”びびび”こそが少し不思議な未来を作ってくれるのかもしれない。

 

 

非常に嫌なやつだということを露呈してしまう話だが、上京してライブハウスなどで共演者の方と挨拶する時に、きっと目上なんだけど仕草や動きが”若者”っぽくて「ネバーランドの人やん!」って心の中でツッコんでしまっていた。そして、気づけばこの自分もいつの間にかネバーランドの住人になっていた、っていうブーメランにやられていますとスカートの澤部さんにお話したことがあった。

すると澤部さんは「土屋くんね、これからどんどんそういうことが起こってきますよ。SNSでやれ結婚だやれ昇進だやれ〜〜と。そういうものを目の当たりにした時に私たちはどんどん社会から離れていきます!」と。(お茶している時の会話を何処かに上げるのは無粋かなと思ったがここまで読んでくださってる方は、よし!)

 

くぅ〜〜〜・・・と聞いてお茶をしていたのだが、どこかワクワクした。これは語弊のあるかもしれないワクワクなのだが、そう話す澤部さんから、諦念から生まれる前向きさ、ポジティブな風をサァと感じたのだ。「でも、やるんだよ!!」

実際、そのテーブルからはコトンとコップを置く音しか鳴っていなかったかもしれない。しかし、その時に私は胸中で「行くしかない〜〜!」と叫んだ。ありがとう、澤部さん。

 

 

諦念という言葉は色んな要素を持っている。私もこの日記で度々使うことがあるのだが、たまに身の回りで「諦念」と聞くと、いや、それはシンプルな諦めじゃん・・・と思ってしまうことがある。

その時にはたと気づいたのだが、諦めるとはある種自分のできることを狭めて可能性を高めるということだ。

 

学生生活だったら周りにあまり馴染めないからこそ、好きなモノに没頭して自分に合う豊かさに気づけたり、自分にはああいう音楽は合わないからできないなあと諦めることによって、自分の人に合う音楽を見つけられたりする。それはきっと良い「諦念」なのだ。その先に愉快痛快がきっとある。

 

どんな年齢の人にもスタートが遅いということはない。相談を持ちかけてくれた友人たちはきっとこれを見ていないからストレートに言えるんだけど・・・僕らは「でも、やるんだよ」。

 

次会う機会があったら言ってみようか・・・。今回は相談に対するアンサーが難しく、なぜ難しいか紐解くための日記でした。言語化できない辛みを無化できるようなたのしいモノを作っていきたいね。届くといいなあ。とりま寝よ!(am5:00)